高岡市議会 2022-09-02 令和4年9月定例会(第2日目) 本文
前田利長公が築いたお城の城跡を公園とした高岡古城公園。豊かな水に満たされた水濠公園でもあり、さくら名所100選に選ばれる自然美あふれる都市公園として全国的にも高く評価されています。市民はもとより、観光客にとっても憩いの場であります。平成27年には国史跡に指定され、さらに評価が上がったと言えるでしょう。
前田利長公が築いたお城の城跡を公園とした高岡古城公園。豊かな水に満たされた水濠公園でもあり、さくら名所100選に選ばれる自然美あふれる都市公園として全国的にも高く評価されています。市民はもとより、観光客にとっても憩いの場であります。平成27年には国史跡に指定され、さらに評価が上がったと言えるでしょう。
本市の歴史・文化資産につきましては、例えば国宝瑞龍寺は、その建築的、文化財的な価値にとどまらず、前田利長公の菩提寺であり、かつその墓所が高岡にあるという歴史的背景も含めて楽しめる魅力的な観光素材であります。
例えば、前田利長公由来の高岡御車山祭が広く知られているのに比べ、前田利長墓所で行われる前田利長公顕彰祭はほとんど知られていません。また、前田利長墓所は、世界文化遺産登録を目指す近世高岡の文化遺産群の構成要素にもなっています。 世界文化遺産登録の条件に、文化遺産への市民の関心や愛着が挙げられます。
「高岡」という名称は、開町の祖である前田利長公が中国最古の詩経の一説である「鳳凰鳴けり彼の高き岡に」から取ったと言われております。緊急プログラムの3年目を迎えるに当たり、私には、いよいよ本市が鳳凰のごとく生まれ変わるタイミングが来ているように思えてなりません。 以上で私からの質問を終えます。
また、伏木地区には、さきにも述べましたが、加賀藩ともゆかりのある勝興寺があり、高岡市としては、13世紀からの由来を持つ高岡大仏、国宝瑞龍寺、また前田利長公より拝領した安土桃山文化の薫り漂う御車山など、ユネスコ無形文化遺産登録や2つの日本遺産認定も受けております。令和時代の単体だけではなく、万葉から現代までをつないだツアーも本市の持つ強みなのではないでしょうか。
昨夜も、高岡開町の祖、前田利長公の遺徳をしのび、鋳物職人の作業歌「弥栄節」を重要伝統的建造物群保存地区の金屋町で、御印祭前夜祭踊りとして900名以上の踊り手の参加で盛大に盛り上がりました。市長さんはじめ、多くの御来賓にも参加いただきました。また、姉妹都市であるフォートウェーンからの交換高校生も参加していただきました。 2015年には、御印祭を含む高岡市の30の有形、無形の文化財が日本遺産に認定。
この地域において、繰り返しになりますが、古くは奈良時代に越中国府が置かれ、全国でも有数の万葉故地として栄え、近世に至っては、前田利長公による高岡開町以来、人やものが行き交う商工業のまち、ものづくりの技と心を礎とした町人文化が花咲くまちとして挑戦と創造を積み重ねてまいりました。
さて、先週、13日のことですが、報道にもありましたが、芳野中学校横にあります前田利長公墓所におきまして、高橋市長が会長を務めていらっしゃいます顕彰会が主催される顕彰祭が行われました。慶長14年(西暦1609年)、今から409年前の9月13日に利長公がこの高岡に入城されたということで、改めてこの高岡というまちの歴史の長さを思うと大変な重みを感じました。
本市ではこれまで、観光関連事業者で構成されているたかおか観光戦略ネットワークにおいて前田利長公ゆかりの寺社をめぐる周遊マップや「たかおか御朱印帳」を作成しているほか、金沢市と富山県西部6市で連携し、加賀前田家ゆかりの寺社や観光施設をすごろく風に楽しみながらめぐる周遊型パンフレットを作成し、周遊観光の促進を図っているところでございます。
新幹線の開業来、地道な誘客PR活動が功を奏してか、前田利長公墓所に足を運んでくださる観光客の数も日に日に増加しているように感じます。 そこで気にかかるのがその管理状況です。見るに、決して十分とは言えないように思います。墓所を取り囲む樹木は歩道を遮りそうな勢いで伸びていますし、堀の濁った水や崩れそうな護岸や柵も目につきます。
高岡は、皆さん御存じのとおり、加賀藩2代藩主前田利長公が築いた高岡城の城下町として発展し、高岡城の廃城後は3代利常公によって商業都市として発展したまちであります。高岡では、金工、漆工、菅笠づくりといった歴史と伝統を反映した工芸・民俗技術が受け継がれ、また高岡御車山祭や伏木曳山祭や各町内に伝わる獅子舞など、地域固有の祭礼・年中行事が今も営まれています。
高岡古城公園は、開祖前田利長公が暮らした御殿の遺構と見られる礎石が発見され、築城時の遺構が良好に保存されており、堀や城の区画であるくるわの形が400年の長きにわたって残っている城跡は全国的に貴重とされ、歴史価値が非常に高いことが認められ、国史跡の認定、日本遺産の認定も受けましたが、城跡内には体育館や市民会館、博物館、動物園などが集積しており、史跡の保存とともに、城跡内にある高岡市民体育館や現在耐震診断中
高岡城を築城してまちを開きました、お話にもございましたが、加賀前田家2代当主前田利長公は、天正13年から慶長2年まで守山城主としておいででございました。私はいまだ、戦国の世の若き日の利長公が守山城から高岡台地を見おろして、いずれはこの地に城と城下町を築きたいものだと思いをめぐらせていたのではないかと想像するのであります。
前田利長公がこの高岡をつくられた遺徳をしのび始まったお祭りであります。私もその先人たちに感謝しながら、きょうの質問に入りたいと思います。 それでは、6月定例会に当たり通告に従いまして質問をさせていただきます。 今回は、大きくまちづくりについて伺いたいと思います。まちづくりと一口に言ってもその手法にはさまざまな切り口がありますが、今回は主に現高岡駅を中心としたものについて伺いたいと思います。
御車山は、皆さん御承知のとおり、御所車を2代目藩主前田利長公が1609年に高岡城を築くに当たりまして町民に与えられたのが始まりと伝えられております。
山町は、前田利長公が400年余り前、高岡に築城されたとき、城の周囲に配置された武家屋敷から町割りされた地区にあり、富山、守山、木舟の旧城下や、前田家ゆかりの美濃、近江、越前から移住してきた町民が家を構えたのが始まりであると聞いています。 また、高岡城は一国一城令で廃城となり、家臣は金沢に引き揚げましたが、3代目利常公が産業振興に力を注いだ結果、加賀藩では金沢に次ぐ商工業都市に発展しました。
この計画の中で高岡城跡は、町を開いた前田利長公や商都として繁栄を導いた利常公にまつわる文化財が集積する旧高岡町往来地区の中でも中心的な歴史資産に位置づけられるものでございます。 高岡城跡につきましては、現在国の史跡指定に向けて調査を実施しておりまして、国の指定を受けてその保存と活用について計画的に取り組むこととなります。
金屋町の歴史は、加賀百万石、2代目藩主前田利長公が隠居して高岡に移り住んだ際、高岡城を築城し、城下町としてまちづくり、産業づくりを行った際、高岡城に入城して2年後の慶長16年9月21日、西部金屋から7人の鋳物師を呼んで町を開いたことは御周知のとおりであります。 本年は節目の400周年になります。
その冊子の中に、検討委員会をまとめられた宮田委員長の言葉の中に「高岡における「市民協働のまちづくり」は、高岡開町の祖である前田利長公と城下の「町衆」によって始まりました」とあり、「「開町の精神」ともいうべき「市民協働」を推進し、新しいまちづくりへと発展させていくことは、代々引き継がれてきた市民と行政にとっての「歴史の宿題」であるとも言えます」と書かれています。
利長くんは高岡のまちを開いた加賀藩二代藩主前田利長公をモチーフに、平成19年7月、高岡市立博物館の常設展示リニューアルの際にミュージアム・キャラクターとして誕生したものでございます。